情熱に飢えている


いつからだろうか。真剣に生きなくなったのは。

いつからだろうか。全力がかっこ悪いと思いはじめたのは。

いつからだろうか。本気で生きたいと思ったのは。

いつからだろうか。情熱を注げる何かを探しはじめたのは。

子どものころはいかにして登下校で白線の上のみを歩き続けるか真剣に考えていた。下校中に寄り道してそのまま友達の家で遊んだり、山の中に基地を作ったり公園で遊んだり毎日が全力だった。

それがいつしか自分の本心を隠すようになり、周りを見るようになった。

これが社会で生きていくためには必要なことなんだと自分を抑えながらあの頃の自分がみたらつまらないと思うような大人になった。

そしてそんな時間があったからこそ今私は自分を変えようとしている。

その方法がブログなのかモーニングページなのかコーチングなのか運動なのか瞑想なのかまたはそのほかの別のものなのか、今の私にはわからない。

自らどの道に進んでいけばいいのかわからない。

今までも同じような悩みはあった。

人生の節目となるとき、決まって同じような悩みを抱える。

このとき自分はどのような選択をしてきたか。

それは決断を保留すること。

人生の道しるべができたときにその道に進めるように決断を遅らせている。

覚悟が決められないのだ。

その道が間違っていたらどうしよう。

後戻りできなくなってしまったらどうしよう。

そんな考えで決断を遅らせ悩み続けてきた。

自分にはもっと魂が震えるようなやりたいことが見つかるんだ。それまでは我慢だ。

そう思い続けて何年が経っただろう。

一生を通じて精一杯100%の力を注げるものが見つかるかと言われたらきっと見つからない。

そんな風に見える人も、今この時この瞬間に情熱を注ぎ続けてきた結果、振り返ったときに10年20年と経っていただけなのだろうと思う。

一生は一度きりなんだから好きなように生きたらいい。とよく言われるが、
一生は一度きりだからこそ失敗しないように大切に生きる気持ちもわかる。

取り返しのつかない状態になりたくないからだ。

RPGなら死んでしまってもリセットできる。

けれどこの一度きりしかない人生ではそうはいかない。

つまり心配症な私には取り返しのつかなくなるようなリスクを負うなということ。

一度のミスで取り返しのつかないような状態になることは避ける。

またはミスをしてもその代替案を考えておく。

決断しないことにはどんなリスクがあるだろうか。

このままなにもせず年齢を重ねることは、真綿で首を締めるようなものである。

気づかないうちにもう後戻りができないところまできてしまう。

また、若いうちなら取れたリスクが取れなくなる。(これも書いていて固定観念だなとは思う)

本来ならいつからでも人は変われる。

それを信じている。信じたいと思っている。

きっと10年後の自分からみたら今自分が悩んでいることや不安に思っていることは大したことない。

10年前に自分が悩んでいたことは大したことないと思うからだ。

不安や悩みを見つけたら、時を飛ばすか別人格にみてもらうかすると和らぐ。

事実と感情を分けて考えるのも効果的だ。

変われない恐れがあるなら10年後の自分に相談してみよう。

きっといいアドバイスが得られるはずだ。


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