3つの話


グーグルアドセンスの審査に2回落ちた。

どうやら有用性の低いコンテンツらしい。

それはそうだとして、なんだか認められてないような感じがしてどうも悔しい。

昨日書きたいことを書くと宣言したばかりなのにどうにも悔しい。

ここで反骨精神が芽生えるから、そういうなら書きたいことを書いたままでアドセンスの審査に通ってやろうと思いました。

私は私のままでいい。

この反抗する感情もめんどくさいなと感じる自分もすべてそのまま抑えることなく感じることに決めた。

今日は朝にブログで書きたいことが思いついていたんだけど、何かにメモしようともしたんだけれどもメモせずに忘れてしまった。

何か書きたいことがあったことは覚えているけどそれがなんだったのか忘れてしまった。

どうせ忘れるだろうなーとは思っていたけど案の定メモをさぼったがゆえに忘れてしまった。

改めて感じることがある。

一発逆転の人生を夢見たりもするけれど、いったいそれはなんのためか。

自分の生きたいように生きたいから。

でもよく考えてみると、これまですべて生きたいように生きてきたのではないだろうか。

決めたのはすべて自分ではなかっただろうか。

親の言うように生きてきたのなら、親の言うように生きるという選択をし続けてきた。

社会のルールを守っているのは、自分が社会のルールを守るということを決めたからである。

○○しなければならない、○○するべきだ、と世の中の常識だからと言い訳をしてそのとおりに選び生きてきたのが今ではないだろうか。

もっとぶっとんだ選択をすることもできたはずだ。

例えば世界一のスポーツ選手になってみたり、自給自足で暮らしてみたり。

夢を諦めるのはいつも自分だ。

夢はいつも逃げない。私がいつも夢から逃げているだけだ。

死んだらどうなるのかを考えたことがある。

私が思うのは無になるだけだと思う。

ふとそんなことが頭をよぎったときに無になることが怖くなる。

今のこの人生が無になると思うと怖くなる。

今の生きているこの世が楽しすぎるから。

無限の無という時間も超越した終わりなき旅に、耐えるも何もないとは思いつつそれを思うと怖くなる。

寝て起きて仕事して遊んでそういった時間の流れがなくなると思うと無性に、いてもたってもいられないほど怖くなる。

死の恐怖はどうやって乗り越えるべきなんだろう。

思いつくのは死の心配なんてしないほど毎日充実した日々を過ごすしかないんだろうと思う。

これまで例外なく人は死んできたから。

私が死んだその先に私が生きた証のようなものがこの世に残るとうれしい。

それは子孫であったり、作品であったり。

私の芸術の源泉は死の恐怖からくるものなのかもしれない。

そんな作品を産み出そう。


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