ドラマでも小説でも犯人側の目線を描かれてしまうとなぜか完全犯罪を応援してしまう。
それが悪い悪くないにかかわらずいつの間にか無意識に主観の味方になってしまう。
この現象をなんというのだろう。
世の中には凄惨な事件や事故が起こったりする。
報道されるのは一方からの目線のみで事件や事故を起こした側からの見え方は報道されることはない。
どんな事情があるにせよ罪を犯す理由にはならないのだろうけど、そもそもその罪自体も人間が決めたことなのでそれが完全であるとも思わない。
罪を憎んで人を憎まずいう言葉があるが、これはまさにその罪自体が人間社会を生きる上で犯してはならない一線であるということと、それを犯すに至ったその人事態を憎む必要がないということを私たちに教えてくれている。
どんな事情でさえ罪を犯す理由にはならないといえるのは、たとえば極端な例を出すと人を殺してみたいという興味で人を殺してしまった人と、自分以外の家族全員が殺されたその復讐のために人を殺した人がいたとしよう。
あなたはこのふたりにおいて前者は人を殺してはいけない、後者は人を殺してもいいと判断するだろうか。
または、誰かに殺されそうになった人が自己防衛のために相手を殺してしまった場合は正当防衛のために人を殺してもよかったと判断するだろうか。
ここに正解はない。
重要なのはあなたがどう考えるかです。
いずれの場合も人を殺したという事実は消えない。
虫を殺すのと同じと考える人も中にはいるかもしれない。
法で規制されているからやらないだけで、社会の一員として生きていくために人を殺さないだけで法がなくなれば社会から疎外されればこうした行動に移る人もいるかもしれない。
あなたにとっての正義とはなんだろうか。
正義の敵は別の正義である。
人によって考え方や生き方が違うのは当たり前です。
あなたはどう考え、どう生きるか。周りにも影響されながら揺れ動くこともあると思います。
でも自分の中でしっかりとしたひとつの芯を持つことが重要です。
たとえ周りの意見に流されるようなことがあっても、目指す指針だけはしっかり見つめていてください。
結果的に目指す指針がぶれてもいいと思います。
どの道に進むか決められなくて悩んでもがいている人もいるでしょう。
私もそうです。
決めていいのか、その道が間違っていたらどうしよう、無駄にしたくない。
そんな考えがグルグル巡ることもあるでしょう。
決めたらなにがいけないの?間違っていたら何がいけないの?無駄になったらなにがだめなの?
本当は何が大事でなにがしたいの?
自分ととことん向き合ってみよう。
そして自分に絶望しよう。
そして絶望を乗り越えよう。
どうやって絶望を乗り越えるかそんな疑問もあるだろう。
学ぼう。学び続けよう。
きっとあなたがつまづいたところは、先人もつまづいたところです。
だれも通ったことのない道を歩むことを決めたなら、あなたが先人となって失敗を伝えよう。それをどう乗り越えたか伝えよう。
調べること、学ぶこと、頼ること、きっと解決の方法はいくつもある。
できる、できないではなくてやるか、やらないか。
その決断をするには、自己分析が必要になると思います。
比べていいのは昨日までの自分だけです。
昨日より今日、かしこくなろう。
昨日より今日、自分を、人を愛そう。
昨日より今日、理想の自分になろう。
昨日より今日、成長しよう。
成功、失敗の判断は、自分が成長できたかどうか。
これも私の価値観なので、違うと思ったならそれでいい。
むしろあなたの価値観がわかっていい。
どんな意見に同調するかより、どんな意見にもやもやするか、イライラするかといったことのほうが自分の価値観がわかっていい。
思ってなくてもよさそうとおもった意見には流されてしまうから。
世間一般的な意見は関係ない。
あなたがどう感じるかが必要です。
自分探しを目的とした旅は終わらせて、確固たる信念をもった旅の中で自分の価値観が磨かれていくのを楽しもう。